当校の本校がある下北沢駅は近年急激に駅前が開発され始め昔とは大きく印象が変わってきています。
それに伴い生活動線や一足も変わっていくでしょう。そう、歩くリズムも。
子供の心や問題もどこか社会情勢に振り回されていたりする。
しかし、私たちはそれに抗うのではなくその変化を受け入れ、今どこを歩いているのか?子供はどこに向かってどんな速度で歩かなくてはいけないのだろうか?そんな理解を時代の波がくるたびにしなくてはならない。
ふと、立ちとまり振り返った時にはそんなことがいつも課題として映ります。
まるで開発されてゆく駅を振り返り、何か忘れ物はなかっただろうか?と振り返るそんな心境にも似ていたりする。このまま時が過ぎてしまっていいのだろうか?古いものが消えていく懐古感に似た焦りの感覚が胸を締め付ける。
例えるならば
子どもが赤ん坊時代に乗っていた歩行器がいつの間にか自転車になっていたり
遊んでいた指人形がいつしか床に転がり、手にしているのはスマホだったり
古い物が捨てられて新しいものがどんどん押し寄せてくる興奮や期待の裏側にあるノスタルジックで大切なもの
街造りでも子どもの人格形成でも似たことが言える。
今があるのは過去があるおかげ
逆も言えて今の問題は過去の問題と連鎖している
だから私たちはその子どもが育ってきた背景もしっかりと知らなければならい。
家の壁を直すためにはその枠組みをまずは直さなきゃいけないのと同じで、子どもの本質を変えるためにはその周りにいる親や家族も一緒に変わらなければならない。
今は新しい情報がどんどん押し寄せてく時代だから見えないものがある。
いや、違う、見えないのではなくて、新しいものを見ようとし過ぎて、これまでを振り返ろうとしないのだ。
どうしてこの子は現在の子の道で転んでしまったのだろうか?
それでは過去はこの子はどう道を歩いていた?
そのために何をしていただろうか?
家族問題に取り組むことはこれまでの歴史を振り返る作業でもある。
時に苦しく、時に苦い、時に懐かしさに満たされ、時に嘆く、きっとそんなことの繰り返しだ。しかし、理想ばかりを見ていたのでは物事は何も解決しない。その根底にある本質の理解も同時にしなくてはならない。
そう、駅が新しくなろうがその街の本質はそう変わることはないのだ。だって歴史と軸、進む方向をきちんと住民と街が理解し合っているから
この街を家庭に置き換えてみてください。
そう、子どもが育とうと新しい時代の波が現れようと家庭の本質はそう変わらないのだ。だっておじいちゃんおばあちゃんもお父さんお母さんも「この家族がどう在りたいか」きちんと家族同士で理解し合っているから。
時代の波に押し流されないように、家族は話し合い、理解し合い、受け入れ合い、支え合わなければならないのです。
〜続く〜